慧海の歩いた道を辿る ②
河口慧海は仏陀の真の教えを極めるべく、サンスクリット語(仏教の教えを記す古代インドの文章語)の原典を求め、チベット入国の準備として、1897年からインドのダージリンでチベット語の習得と仏教徒としての修行を3年間行っています。
当時、ダージリンから直接北に抜ければ、すぐにチベットに入国出来ました。しかし、鎖国中のチベットは厳重に国境を封鎖しており、密入国やそれを支援した人は皆死刑に処せられていました。
慧海はチベットへ抜ける間道を調べ、ダージリンから入国することをあきらめ、ネパールから密入国することにしたのです。
カトマンズからポカラへ出て、カリガンダキを遡り、ツァーラン村でさらに修行をしながら間道を探ります。
ムスタンを北に抜けチベットへ入ろうとしましたが、ここもチベット軍の警備が厳しく、密入国は不可能と判断しました。
慧海はこの時点で、さらに西にあるトルポ(ドルポ)からヒマラヤ越えを決行することを決断したのです。
「チベット旅行記」に掲載された地図を示します。

和田 豊司 記
当時、ダージリンから直接北に抜ければ、すぐにチベットに入国出来ました。しかし、鎖国中のチベットは厳重に国境を封鎖しており、密入国やそれを支援した人は皆死刑に処せられていました。
慧海はチベットへ抜ける間道を調べ、ダージリンから入国することをあきらめ、ネパールから密入国することにしたのです。
カトマンズからポカラへ出て、カリガンダキを遡り、ツァーラン村でさらに修行をしながら間道を探ります。
ムスタンを北に抜けチベットへ入ろうとしましたが、ここもチベット軍の警備が厳しく、密入国は不可能と判断しました。
慧海はこの時点で、さらに西にあるトルポ(ドルポ)からヒマラヤ越えを決行することを決断したのです。
「チベット旅行記」に掲載された地図を示します。

和田 豊司 記