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2005年02月16日
毛無山(1,946m)
富士山を取り巻く山並みに、北面の三ツ峠から五湖山にかけての御坂山塊、東面には御正体山と山中湖周辺の山、遠くに金時山がある。南側には独立した愛鷹連山があり、昨年秋のOB総会ではみんなで愛鷹の主峰、越前岳(1,456m)に登ったのも、まだ記憶に新しいところでしょう。
さて今回は、関東支部のいつものメンバー(今成、山火、宮川、河野)で、富士山の西側にある天子山塊の毛無山(1,946m)に登ってきました。日本200名山にも選ばれたている2千メートルに手が届かんとする名峰ですが、登山口の麓集落の標高が860mで頂上まで1000m余を急登する<体力がものをいう>コースでした。
2月にしては暖かい15日(火)朝7時15分,JR武蔵野線府中本町駅に集合。宮川さんの車で中央高速を大月を経て河口湖ICで降り、河口湖大橋をドライブ、青木ヶ原樹海を越え朝霧高原へと入り、9時30分に麓集落に着き車を降りる。
登山口を出発するとすぐに金山精錬所跡がある。戦国時代からの金山跡で信玄も掘ったと言う。往時は大変栄えたとか。麓宮の祠を右に見て金山沢に入る。杉林を少し登ると地蔵峠への分岐点がある。
さらに杉林を行くと一合目表示の道標が出てくる。自然林に変わり、やせ尾根の急勾配に二合目の標識がある。尾根上に出ると不動の滝見晴台で、谷を隔てて二段の細い糸のような滝が望まれる。最初の休憩を取る。
また急登、三合目の標識を越えると道にところどころ雪が固まっている。熊笹の中の雪は凍り付いていて滑りやすい。
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石と岩と雪の道を行くとレトロなホーローびきの看板のある五合目に着く。休憩をして汗を乾かす。この辺りから雪道を進み尾根に上がると六合目。七合目を越えたところで休息をとり、樹木も段々と低くなってきて、雪もしっかり踏み固められている。八合目を越え、富士山展望台に出る。西側から見る富士はこの時期にしては黒っぽく見える。九合目の標識を見るとすぐ傾斜が緩やかになり県境尾根に出る。左に地蔵峠からの踏み跡があり、右に行くと南アルプス展望台という岩がある。上がると聖岳から塩見、間ノ岳、北岳、甲斐駒、鳳凰三山、八ヶ岳が白銀の衣をまとって青空の下にくっきりと見える。気持ちの良い尾根をゆっくりと進むと台地状の毛無山山頂に着く。登りっぱなしで3時間40分、1時10分の到着である。この山の名前は山頂に樹木が少なく、木無山からきているとのことで、頂上からの展望は富士山側のみ開けている。ここからの眺めは、富士の大沢崩れを真正面に、眼下に茶褐色の朝霧高原や麓集落が望める。
昼食は前回の筑波山に引き続いて今成さんお手製の「おいなりさん」を全員でほおばる。卵焼き、漬物もお手製でいつもながらのご馳走に感謝!山火さんがボッカしてくれた「浦和の名水」で暖かいスープとコーヒーを飲む。犬を連れた地元のご婦人が上がってきて記念撮影をお願いする。賑やかに犬と話しながらすぐに下りていく。
軽アイゼンをつけ2時に出発、往路を引き返す。雪道を一気に五合目まで一時間で下り、三合目を過ぎたところでアイゼンを外し、膝をガクガクさせながらとにかく下る。4時30分登山口到着。予想通り6時間を越す行程だった。
帰りは上九一色村の「上九の湯」で汗を流しビールを飲み、甲府の近くでは「蕎麦と濁り酒」を楽しみました。運転してもらった宮川さんには好きなお酒を辛抱して、みんなを無事送り届けてもらい感謝します。帰りの時間は酩酊していたので定かに覚えておりません。
厳しくも景色の良いコースで、楽しい仲間内の山行でした。
記録 河野 吏(1963年卒)
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2005年02月03日
またまた 筑波山山行 平成17年2月2日
前日のテレビ気象予報では、折から来襲中の大寒波が影響し2月2日には日本各地に大雪をもたらすこと、 東京地方でも最低気温が零度Cを 切る今冬一番の寒い日となるであろうと伝えていました。
こんな朝、東京支部いつもの四人組み(今成・山火・河野・宮川)はそれぞれ夜が明け切らない内に家を離れ、約束時間7時には常磐線柏駅に全員集合。寒さも眠さも何のその、オレンジ色の今成車「WILL」に颯爽と乗り込みました(颯爽なんて筆者だけの独りよがりか? 通勤・通学に急ぐ大方の人々の眼に、「初老のオジサン グループこんなに早い時間から変な色の車に乗ってどうするの? 年寄りの冷や水とならない様お体と行動に気をつけてネ」と無言の批判と激励が宿っているのを見つけました)。
そうです。今日の目標は深田久弥が選んだ日本100名山の一つ、標高は1000mに満たない低山ですが関東平野のど真ん中に男らしくすっくと立つ「筑波山」の登山です。
車はいつの間にか6号線(水戸街道)を離れ筑波学園都市を走っています。目指す筑波山も前方に望める様になって来ました。道路の両側は各種研究機関ばかり、アカデミックな雰囲気が漂います。
こうなると今成さんのホームゲレンデ、なんせ30回以上も「筑波山」に足を運んでおられるMr.薀蓄家、 「筑波山」の文化・自然史概論」の講義が始まりました。以下はその内の幾つかのピックアップです。
1:「筑波山」の名前の由来は、アイヌ語源のツクバ(聳え立つ)から来たとの説もあるが、衝羽根(ツクバ ネ<羽根つきの羽根>。女体山・男体山それぞれ相似的に立ち上がった山の姿がそれに似ている) 説を採りたいこと
2:イザナギ、イザナミ男女二神を祀る「筑波山神社」は縁結びの神で有名。 筑波山神社と山付きが一 般的であるが、「筑波神社」と山無し表記も正式に存在し、両方並立しているとのこと
3:「筑波山」と云えば「ガマの油売り口上」が有名であるが、今でもその保存会が毎月例会を催し、参詣 者に披露して楽しませているとのこと
ファミレスでのMr.山火の変わらぬお惚けジョークに大笑いし、また車中でスノーシュー山行計画を語っている内に、9時半に大鳥居上の駐車場に到着、愈々登山開始です。
女体山・男体山の山頂近くまで有料の筑波スカイライン、ロープウエイはたまたリフトを使い手軽に登れるところから春・夏・秋の観光シーズンには、サンダル履きにスカートをなびかせるご婦人も目につく程の老若男女多くの人々に溢れる由のこの山ですが、今は厳冬期、且つ今日はウィークデイでもあることから流石に登山者の姿はチラホラです。 我々が辿る登山コースは数あるコースの中でも最長のもの、出発点(220m)から筑波山神社〜つつじヶ丘(520m)〜弁慶茶屋〜女体山(876m)〜御幸ヶ原(790m)〜男体山(860m)〜筑波梅林をラウンドするものです。 最初に筑波山神社で四人並んで神妙な顔で御参りをし、急な石段を登り始めます。途中左方弁慶茶屋への分岐点をルートは右にとり、林間のこぼれ陽道をトラバース気味に辿る頃には額に汗がうっすらと滲み出します。 後ろから、”今日も宮川速いなあ、もう少しゆっくり行こうヨ”の声が出始める頃(そうは云っても間もなく全員65歳の先輩達、健脚ぶりは尚健在です)、ロープウエイ駅のあるつつじヶ丘に到着です。
空は晴れ渡り、稜線は思った程季節風が強くありません、むしろ火照った体には心地良く快適です。
弁慶茶屋を過ぎ、弁慶七戻り(今にも落下しそうな巨岩が登山路の頭上に不安定な形で引っ掛かっている)を過ぎれば女体山頂上はまじかです。完全に氷化した雪道に注意を払い早足で駆け上ります。
頂上はお社を配し、滑りやすい岩質のステージになっています。女体と艶かしい名前がついていますが、残念ながらその趣を何処にも見つけることが出来ません。日光(男体山(100名山)/女体山・女峰山(100名山)といい此処筑波山といい往時関東の人は何故斯くも色っぽい名前を山に付けたのでしょうか? 左方を遠望すると、霞ヶ浦が穏やかな太陽の光を受け、以外に大きく光り輝いています。西方の丹沢や箱根方面は少し霞が懸かり、山座同定に適しません。わずかに富士山の下部左斜面が覗われる程度です。
頂上を早々に辞し、女体・男体両峰の鞍部、御幸ヶ原に雪道を駆け下り、さあ待望の昼食です。
それと言うのも今日のお昼は全員、オフィシャル調理師・今成さんお手製・ご持参の揚げ寿司のご相伴が出来るからです。二種のおあげさん、甘からず辛からずとにかく絶品、秀逸です。御茶ノ水の揚げ寿司で有名なXX寿司にも勝るとも劣らないもの、腕前は流石一級品です。本人は”二度とは作らないヨ”と謙遜して述べておられますが、「皆がハッピーな気持ちで美味しい時を和気藹々と過ごす」、そんな機会をいつか或る日また提供して戴けるものと確信して昼食は完了です。
午後の活動は男体山の頂上踏みに始まり、即獣道様の急な山道を早足で下ります。 上部3分の1はツンドラの如く凍てつき、気を抜くと危険です。岩のステップにはバランスを、木の幹や枝に体重を上手く分散させ、脚の力と山の経験が試されるところです。 1000m以下の標高の山といっても侮れません。漸く傾斜が緩み獣道様から普通の山道に戻る頃、我々4人組の目前真近を二匹のイノシシが駆け抜けました。三匹目は我がパーティに気圧されたのか道路際で横断を諦め、暫くの間下方に併走、隙をみて先行のイノシシ仲間に合流です。 森の王者イノシシもオジサン パワーに参った参ったの有様です。
途中、梅の香薫る筑波梅園を訪れ、風流に観梅です。 紅梅は今が満開、白梅はやや早い5分咲きといったところでしょうか。 始発点の駐車場には二時半前に帰着、その後いつも通り近くの立ち寄り湯を訪れ一汗流した後、軽く一杯。おっと筑波山地主の今成さん、ここでもノンアルコール飲料の注文、終始ご奉仕・ご奉仕が続きます。 ともあれ百名山登頂、四人組み健在、愉快で嬉しい一日でありました。
文責 ’67法卒 宮川 清彦
