「青春の場」を訪ねてみようと
1月30日のOB総会に出席したら、翌日に「我が青春の場」を訪ねてみようと決めていました。
京都駅前のビジネス・ホテルに泊まったので、目的地へのバスは迷わず簡単に見つけられました。
出町柳経由大原行きです、と書けばDACのメンバーならおわかりでしょう、三千院ではありません。
ハイ、「コンピラ」へ向ったのです。
八瀬の辺りから、まばらに積もった雪が見え始め、だんだんと地面を覆うようになって来ました。
学生時代は「出町柳」から乗車しましたが、今朝は中心街を通って出町柳を通過しました。
何年か前にこの辺りを歩きましたが、京阪の駅は地下に潜り当時の名残はどこにもありません。
乗客で観光客と思しき姿は私の他には2名だけ。
当時を辿って再現してみようと思い、バスは「戸寺」で下車しました。
トデラです。

50年ぶりに降りたバス停から「コンピラ」の方角を見上げました
白い岩がコンピラの岩場のようです。

高野の流れはこんな広かったっけ?

こんな店がバス停のそばに、 「おら知らねぇ」

こんなにたくさん家があったっけ
バス停から神社までは一本道だと思っていましたが、右折、左折、右折してから山へ向う道が一本になりました。

立派な道が出来ていて、こんな標識が・・・
「江文峠」なんて、いったい何時出来たんや

「江文神社」って、「こんぴら」の神社の名前?

驚いてばかりはいられない、先を急ごう

この案内板を見ると、私の向っているところはどうも「江文神社」というらしいです

「ムムッ」鳥居があったっけ

手前の木に括りつけられていた看板
「登山者の皆さんえ」 は 「へ」 が正しいのではなどと思いながら、全文を読んでしまいました、ちょっと淋しいお願いです。
人の多さは時代の変化でしょう。
あの時代、岩登りの練習に通う学生とはほとんど出会わなかったし、ましてや社会人はマレだったように思う。

これが、ここがわが青春の場 「コンピラのお堂」 です
ありました、こんな健全な姿で残っているとは思いませんでした。
ネパールで一緒だった学生君に聞いたら、「何ですかぁ?」といった感じの返答で、今は使われていないということでしたが、思うに昔のままです。
屋根がトタンだったかの記憶はありませんが、石段と石垣と正面の木の階段と建物は昔のままです。
この「コンピラのお堂」に思い出が詰まっています。
ま、50年ぶりに訪ねれば、大抵のところでは感動のようなものがあるはずです。
でも、思いを入れていなければ、50年ぶりにかつての同窓生にあっても、「お久しぶり」といった程度の気持の動きで終わるのではないでしょうか。
私にとっては、懐かしさを超えてこの「お堂」には、僅か50年といった時間の経過ですが、静かな「美」を感じてしまいました。
前日、金閣寺へ行って気持に変化のない自分に疑いを持ちましたが、感じる気持を持ち合わせている自分を確認し安堵いたしました。
あの時代、このお堂で新人歓迎コンパが行われ、4合入るバール(アルミの食器、バールってボールのドイツ語?だといわれました)に注がれた酒を一気に飲まされ、しばらくして新人のほとんどが食べたものを天井に向って吐き出した・・・。
翌朝、掃除はきちんとしたと思います。
そして、三千院まで歩かされましたが、ただ苦しかったという記憶しかありません。
山岳部時代、春から晩秋までは大げさにいうと、毎週末のようにこのお堂に寝泊り(テントは張らなかった)して、ロック・トレ(当時の言葉)をしました。
食べ物が豊富でなかった時代で、食事を市内でするよりも山でした方が安くつくという狙いもありました。
翌日は、自宅から参加する同期の仲間に、昼のオニギリなどを頼んだりして食いつないだ時代でした。

お堂は絵馬堂となっていて、内部はいたんでいませんでしたが、「老朽化のため立入禁止」の札がロープにぶら下がっていました。

覚えていますよね

お堂の脇の道を登ってみましたが、こんな常態なので15分ほど歩いてから引き返すことにしました。

上の白い岩が「ワイケン」だろうか
後輩たちに告ぐ
ワイケンのワイはYシャツのワイでホワイト。
ケンは懸垂のケンだと故人となった同期の岩間君から聞きました。
懸垂の練習をしたのは、確かこのワイケンで、後ろに木があってザイルを回してやったっけ。
今のように器具のない時代、肩がらみでザイルに塗られた油でシャツが無残に汚れてしまったものでした。
こんなモノクロ写真が出てきました

時代を感じさせるこの写真、岩場の名前は忘れましたが、上部に小さなチムニー状の溝があって、木があった・・・。
この写真は多分1960年秋のもので、翌春の剱岳・小窓尾根からチンネの左稜線の積雪期初登攀をねらってのトレーニングで、オーバシューズの上に8本爪の門田のアイゼン付けてのトレーニングです。
恐らく、佐藤さんか長谷川さんが撮ってくれたのでは・・・。
特筆すべきは2本のザイルです。
初めて経験する「ドッベル」で、先輩の長谷川さんと佐藤さんや植西さんの発案だったと思います。
残念なことに当時CLだった植西さんが「アピ」のメンバーに加わったため、チンネ左稜線のチャレンジは中止となり、小窓と早月から劒といった計画に変更されました。
記憶に違いがあったらお詫びいたします。
(CLはChiaf Leaderの略、現在の山岳部では主将と称しているようですが、どうも違和感があって馴染めません、体育会のきまりなのでしょうか)
ルンルン気分で下って、もう一つの「青春の場」、『花尻橋』へ向いました。

モズが・・・
右岸には大きな病院が建っていて、この辺りも様変わりしていました。
花尻橋といえば、 『土井』 さんですよね

ロック・トレの帰りは必ず花尻橋まで歩き、バスが来るまで土井さんの店の中の長椅子に座りしゃべっていると、大抵お茶が出てきました。
(現在、バスの間隔は15分くらいですが、当時は1時間くらいの間があっと思いますが、誰も帰りの時刻などをメモしたりはしなかったようです)
上級生がビールを注文すると、一緒に出て来たのが紫色の「生志ば漬」でした。
当時、私は漬物が大の苦手でしたが、漬物臭のないこととシソの香りに引かれて手を出してみました。
それ以来「土井の生志ば漬」を私の「お気に入り」登録し、現在でもデパ地下などで京都物産展があると買うのは「志ば漬」、それもO利やO安などには目もくれず、土井さんの「生志ば漬」しか絶対に買いません。
ある時、1年先輩の松村さんが夜中に腹痛を訴え、上級生が土井さんに駆け込み、市内の病院まで送ってもらったということもありました(松村さんは盲腸でした)。
そんな縁のあるD⇔Dつながりの土井さんに寄ってみたかったのです。

現在のお店は、道路をはさんで向い側に移り、漬物茶屋「花ぢり」と広々とした売店があり、隣接の工場の見学も出来るようです。
季節はずれのこの時期、客は私の他には2人しかいなかったので、一通り試食をさせてもらいましたが
買ったのはやっぱり

コレ! しかも「大原限定」 もったいなくてまだ食べていません
思いを遂げた冬の京都の1日でした。
'62卒 関東支部 今成 征三
おまけ
総会に故児島勘次先輩のお嬢さん夫妻(会友)が参加されていたこともあってか、氏の人柄を偲びつつ台湾の話になり、強いリクエストに応えて乾さんが「タイヤルの歌」を歌われました・・・イボの葉陰に娘一人 何が悲しゅうて泣くのやら アワの祭りが近いあるに オーワイヤハン ・・・
先年、阪神支部が編集された「山の歌集」に歌詞載っています。


左下に(替え歌)として
金比羅山のふもとの 高野の流れ娘とれる 一度おいでわが志ば漬屋
よく歌いました。
おぼろげな記憶ですが、土井家のお嬢さんが同志社のOGだったとか。
歌は歌い継がれているのでしょうか。
もうひとつ おまけ

どなたかこの「歌集」にご記憶ありませんか? 私の学年ではありません。
61年卒の上田彰二さんが、先日机の引き出しから見つけ出したものです。
1ページは 大尉の遺言」です

京都駅前のビジネス・ホテルに泊まったので、目的地へのバスは迷わず簡単に見つけられました。
出町柳経由大原行きです、と書けばDACのメンバーならおわかりでしょう、三千院ではありません。
ハイ、「コンピラ」へ向ったのです。
八瀬の辺りから、まばらに積もった雪が見え始め、だんだんと地面を覆うようになって来ました。
学生時代は「出町柳」から乗車しましたが、今朝は中心街を通って出町柳を通過しました。
何年か前にこの辺りを歩きましたが、京阪の駅は地下に潜り当時の名残はどこにもありません。
乗客で観光客と思しき姿は私の他には2名だけ。
当時を辿って再現してみようと思い、バスは「戸寺」で下車しました。
トデラです。

50年ぶりに降りたバス停から「コンピラ」の方角を見上げました
白い岩がコンピラの岩場のようです。

高野の流れはこんな広かったっけ?

こんな店がバス停のそばに、 「おら知らねぇ」

こんなにたくさん家があったっけ
バス停から神社までは一本道だと思っていましたが、右折、左折、右折してから山へ向う道が一本になりました。

立派な道が出来ていて、こんな標識が・・・
「江文峠」なんて、いったい何時出来たんや

「江文神社」って、「こんぴら」の神社の名前?

驚いてばかりはいられない、先を急ごう

この案内板を見ると、私の向っているところはどうも「江文神社」というらしいです

「ムムッ」鳥居があったっけ

手前の木に括りつけられていた看板
「登山者の皆さんえ」 は 「へ」 が正しいのではなどと思いながら、全文を読んでしまいました、ちょっと淋しいお願いです。
人の多さは時代の変化でしょう。
あの時代、岩登りの練習に通う学生とはほとんど出会わなかったし、ましてや社会人はマレだったように思う。

これが、ここがわが青春の場 「コンピラのお堂」 です
ありました、こんな健全な姿で残っているとは思いませんでした。
ネパールで一緒だった学生君に聞いたら、「何ですかぁ?」といった感じの返答で、今は使われていないということでしたが、思うに昔のままです。
屋根がトタンだったかの記憶はありませんが、石段と石垣と正面の木の階段と建物は昔のままです。
この「コンピラのお堂」に思い出が詰まっています。
ま、50年ぶりに訪ねれば、大抵のところでは感動のようなものがあるはずです。
でも、思いを入れていなければ、50年ぶりにかつての同窓生にあっても、「お久しぶり」といった程度の気持の動きで終わるのではないでしょうか。
私にとっては、懐かしさを超えてこの「お堂」には、僅か50年といった時間の経過ですが、静かな「美」を感じてしまいました。
前日、金閣寺へ行って気持に変化のない自分に疑いを持ちましたが、感じる気持を持ち合わせている自分を確認し安堵いたしました。
あの時代、このお堂で新人歓迎コンパが行われ、4合入るバール(アルミの食器、バールってボールのドイツ語?だといわれました)に注がれた酒を一気に飲まされ、しばらくして新人のほとんどが食べたものを天井に向って吐き出した・・・。
翌朝、掃除はきちんとしたと思います。
そして、三千院まで歩かされましたが、ただ苦しかったという記憶しかありません。
山岳部時代、春から晩秋までは大げさにいうと、毎週末のようにこのお堂に寝泊り(テントは張らなかった)して、ロック・トレ(当時の言葉)をしました。
食べ物が豊富でなかった時代で、食事を市内でするよりも山でした方が安くつくという狙いもありました。
翌日は、自宅から参加する同期の仲間に、昼のオニギリなどを頼んだりして食いつないだ時代でした。

お堂は絵馬堂となっていて、内部はいたんでいませんでしたが、「老朽化のため立入禁止」の札がロープにぶら下がっていました。

覚えていますよね

お堂の脇の道を登ってみましたが、こんな常態なので15分ほど歩いてから引き返すことにしました。

上の白い岩が「ワイケン」だろうか
後輩たちに告ぐ
ワイケンのワイはYシャツのワイでホワイト。
ケンは懸垂のケンだと故人となった同期の岩間君から聞きました。
懸垂の練習をしたのは、確かこのワイケンで、後ろに木があってザイルを回してやったっけ。
今のように器具のない時代、肩がらみでザイルに塗られた油でシャツが無残に汚れてしまったものでした。
こんなモノクロ写真が出てきました

時代を感じさせるこの写真、岩場の名前は忘れましたが、上部に小さなチムニー状の溝があって、木があった・・・。
この写真は多分1960年秋のもので、翌春の剱岳・小窓尾根からチンネの左稜線の積雪期初登攀をねらってのトレーニングで、オーバシューズの上に8本爪の門田のアイゼン付けてのトレーニングです。
恐らく、佐藤さんか長谷川さんが撮ってくれたのでは・・・。
特筆すべきは2本のザイルです。
初めて経験する「ドッベル」で、先輩の長谷川さんと佐藤さんや植西さんの発案だったと思います。
残念なことに当時CLだった植西さんが「アピ」のメンバーに加わったため、チンネ左稜線のチャレンジは中止となり、小窓と早月から劒といった計画に変更されました。
記憶に違いがあったらお詫びいたします。
(CLはChiaf Leaderの略、現在の山岳部では主将と称しているようですが、どうも違和感があって馴染めません、体育会のきまりなのでしょうか)
ルンルン気分で下って、もう一つの「青春の場」、『花尻橋』へ向いました。

モズが・・・
右岸には大きな病院が建っていて、この辺りも様変わりしていました。
花尻橋といえば、 『土井』 さんですよね

ロック・トレの帰りは必ず花尻橋まで歩き、バスが来るまで土井さんの店の中の長椅子に座りしゃべっていると、大抵お茶が出てきました。
(現在、バスの間隔は15分くらいですが、当時は1時間くらいの間があっと思いますが、誰も帰りの時刻などをメモしたりはしなかったようです)
上級生がビールを注文すると、一緒に出て来たのが紫色の「生志ば漬」でした。
当時、私は漬物が大の苦手でしたが、漬物臭のないこととシソの香りに引かれて手を出してみました。
それ以来「土井の生志ば漬」を私の「お気に入り」登録し、現在でもデパ地下などで京都物産展があると買うのは「志ば漬」、それもO利やO安などには目もくれず、土井さんの「生志ば漬」しか絶対に買いません。
ある時、1年先輩の松村さんが夜中に腹痛を訴え、上級生が土井さんに駆け込み、市内の病院まで送ってもらったということもありました(松村さんは盲腸でした)。
そんな縁のあるD⇔Dつながりの土井さんに寄ってみたかったのです。

現在のお店は、道路をはさんで向い側に移り、漬物茶屋「花ぢり」と広々とした売店があり、隣接の工場の見学も出来るようです。
季節はずれのこの時期、客は私の他には2人しかいなかったので、一通り試食をさせてもらいましたが
買ったのはやっぱり

コレ! しかも「大原限定」 もったいなくてまだ食べていません
思いを遂げた冬の京都の1日でした。
'62卒 関東支部 今成 征三
おまけ
総会に故児島勘次先輩のお嬢さん夫妻(会友)が参加されていたこともあってか、氏の人柄を偲びつつ台湾の話になり、強いリクエストに応えて乾さんが「タイヤルの歌」を歌われました・・・イボの葉陰に娘一人 何が悲しゅうて泣くのやら アワの祭りが近いあるに オーワイヤハン ・・・
先年、阪神支部が編集された「山の歌集」に歌詞載っています。


左下に(替え歌)として
金比羅山のふもとの 高野の流れ娘とれる 一度おいでわが志ば漬屋
よく歌いました。
おぼろげな記憶ですが、土井家のお嬢さんが同志社のOGだったとか。
歌は歌い継がれているのでしょうか。
もうひとつ おまけ

どなたかこの「歌集」にご記憶ありませんか? 私の学年ではありません。
61年卒の上田彰二さんが、先日机の引き出しから見つけ出したものです。
1ページは 大尉の遺言」です
