吉村元会長を偲んで
去る4月26日京都ホテルオークラにて、「遠き山 旅する心」と題してのお別れ会がしめやかに厳かに、そして和やかに行われました。
我ら吉村元会長のお人柄をそのままご遺族が表された葬儀でありました。
自然の草花を配した祭壇とそのバックには右に「ナムナニ峰」、左に「カント峰」の巨大な薄いブルーのモノトーン調の写真(高野晃輔会員製作)が掲げられておりました。

吉村元会長は殊の外現役学生を大切に、彼たちをこよなく愛された会長であられました。
会長として在任された期間(1982 ~1999)は山岳会の第2の黄金期を形成した期間でありました。
我々DACとCMAならびにAACKとの三者合同の納木那尼峰合同登山隊は、近年希に見る日中友好合同登山隊を会員一致団結した体制にて1985年成功へと導かれました。
1988年のカント峰の成功、91年日ソ合同カムチャッカ学術クリチェフスカヤ・ソプカ峰登山の成功。
しかし、93年奥高野での中村慎吾君の遭難という悲しいこともありました。
問題はその遭難後の部の再建における当時の若手OB間での、部の今後を思えばこその再建策の議論でありました。
98年ヤル・チャンポ河源流学術隊は残念ながらカキュ・カンリ峰の登頂は断念(2002年二次隊は全員登頂)。
しかし、吉村会長が激怒されたのは、その準備段階での幹事会においてカキュ・カンリ峰遠征を実行すべく議論に非協力的な意見に対してでした。
吉村元会長は今でもその意見に対しては許されてはおられません。誠に残念なことにこれらの意見対立が、吉村元会長が亡くなられるまでに会員同士が許し合い氷解出来なかったことを申し訳なく思うばかりです。
その後、現役を愛する会員の力並びに吉村会長のご努力により、田辺校舎内にDACクライミングセンター(2004年竣工)による効果、そして特に当時の松村監督の並々ならぬご努力により、現在現役の活動力は日本一といって良いほど立派な山岳部に育てられたのも、その陰には吉村元会長のお力があったことは間違いないことと思われます。
語ればまだまだ多くの出来事が走馬灯のように浮かび上がります。
会員皆様にその偉業とお人柄の一部をお伝えし、早すぎる吉村元会長(平成23年3月28日、享年78歳)のご逝去のご報告に代えさせていただきたいと思います。
こころからご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
同志社大学山岳会
会 長 大日 常男
我ら吉村元会長のお人柄をそのままご遺族が表された葬儀でありました。
自然の草花を配した祭壇とそのバックには右に「ナムナニ峰」、左に「カント峰」の巨大な薄いブルーのモノトーン調の写真(高野晃輔会員製作)が掲げられておりました。

吉村元会長は殊の外現役学生を大切に、彼たちをこよなく愛された会長であられました。
会長として在任された期間(1982 ~1999)は山岳会の第2の黄金期を形成した期間でありました。
我々DACとCMAならびにAACKとの三者合同の納木那尼峰合同登山隊は、近年希に見る日中友好合同登山隊を会員一致団結した体制にて1985年成功へと導かれました。
1988年のカント峰の成功、91年日ソ合同カムチャッカ学術クリチェフスカヤ・ソプカ峰登山の成功。
しかし、93年奥高野での中村慎吾君の遭難という悲しいこともありました。
問題はその遭難後の部の再建における当時の若手OB間での、部の今後を思えばこその再建策の議論でありました。
98年ヤル・チャンポ河源流学術隊は残念ながらカキュ・カンリ峰の登頂は断念(2002年二次隊は全員登頂)。
しかし、吉村会長が激怒されたのは、その準備段階での幹事会においてカキュ・カンリ峰遠征を実行すべく議論に非協力的な意見に対してでした。
吉村元会長は今でもその意見に対しては許されてはおられません。誠に残念なことにこれらの意見対立が、吉村元会長が亡くなられるまでに会員同士が許し合い氷解出来なかったことを申し訳なく思うばかりです。
その後、現役を愛する会員の力並びに吉村会長のご努力により、田辺校舎内にDACクライミングセンター(2004年竣工)による効果、そして特に当時の松村監督の並々ならぬご努力により、現在現役の活動力は日本一といって良いほど立派な山岳部に育てられたのも、その陰には吉村元会長のお力があったことは間違いないことと思われます。
語ればまだまだ多くの出来事が走馬灯のように浮かび上がります。
会員皆様にその偉業とお人柄の一部をお伝えし、早すぎる吉村元会長(平成23年3月28日、享年78歳)のご逝去のご報告に代えさせていただきたいと思います。
こころからご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
同志社大学山岳会
会 長 大日 常男